作・構成 森田真

三馬路武館の成り立ち

三馬路武館とは、長春市東三馬路に周馨武(1876~1959)が設けた武館(道場)である。

周は、河北省の出身で長拳と硬気功に優れ、「鉄肱臂(鉄腕)周馨武」の異名をとっていたが、地元のやくざと争ってこれを打ち殺してしまい、故郷を出奔した。

その後、各地を転々としながら、身につけた武術や硬気功を街頭で披露して糊口をしのいでいたが、1922年のある日、瀋陽で李咢堂(1904~1972)と出会う。

李咢堂は神槍・李書文(1862~1934)の養子であるが、周の芸を見て「そんなもの役に立ちませんよ」と笑ったことから腕比べとなった。鉄板で脇腹を打たせてもビクともしない周であったが、拳でも槍でも完敗し、李咢堂に弟子入りを乞う。

しかし李咢堂は周より30歳近く年下のため、代わりに父の李書文を紹介し、ここに周馨武は47歳にして李書文の八極拳を学ぶこととなった。このとき、実際に周に八極を手ほどきしたのが李書文の開門弟子である霍殿閣(1886~1942)であった。

こうして八極門人となった周は、11年後(1934)に霍殿閣を頼って長春(当時の新京)を訪れる。

皇帝の護衛官であった霍殿閣に一民間人である周はなかなか会えなかったが、縁あって知り合った陳金財、尹慶和ら若者たちの助けを借りて東三馬路で売りに出されていた鉄工場を買い、武館を開く。やがてそれが宮内府の霍の耳に入り、ようやく周馨武と霍殿閣は再会を果たした。

1935年、霍殿閣は周馨武を全面的に支援し、こうして三馬路武館が成った。

宮中の要職にある霍の武館と周の武館とでは、門下生の身分や階層も自ずから異なっていたであろう。

「周の武館に集まってきたのはほとんどが子どもたちで、周はわずかな月謝で武術を教えてかろうじて生計を立てていた」という人もいる。

だが、まさにその民間の子弟たちの中から、後年名人達人が輩出することとなる。

三馬路武館の練習

以下は、譚吉堂(1916~2008)が筆者に語ったことを中心に構成したものである。

三馬路武館の練習は午後6時から始まる。子どもたちは8時に帰宅するが、大人たちは11時過ぎまで練習した。

周は非常に厳格で、練習中は私語はもちろん、壁にかかった武器に触れることも厳禁だったという。八極拳は武館の最高教程であり、その基本として弾腿や洪拳、査拳などが教えられた。

21歳で周に弟子入りした譚は、初めは基本功や十路弾腿、金剛八式を一か月に一式ずつ。その後小架、八極拳、対打と順に習っていき、3年半ほどで八極門の基本課程を終えた。それからは六大開などの上級套路や硬功、武器などを学んだが、六大開、八大招などは師に個別に呼ばれ、秘密裏に伝授された。大師兄の霍慶雲(1905~1987)から直接教わることもあった。

その頃の逸話に、こういうものがある。

ある日、霍慶雲が煙管をくゆらせながら譚に言った。

「弟よ、おまえはなぜ六肘頭を練習しないのだね?」

「師兄、肘は短くて実戦には使えませんよ」

「ほう、そうか。それなら私は肘しか使わないから、すきに打ってきなさい」

譚吉堂も腕には自信があったため本気でかかっていったが、慶雲の強さは尋常ではなかった。「6つの技で7回倒された」譚は素直に頭を下げ、六肘頭を練習するようになった。

譚吉堂は29歳までこの武館に所属したが、毎晩6時から11時半まで練習し、1回30~45分の小架を1日2回、対打を毎日20回は行ったという。「身寄りがだれもいなかったから、時間は十分にあった」譚はそう語る。

硬功は、はじめ崩弓を2年練習したが、師兄に「拳より掌のほうが変化が多彩で使いやすいぞ」と助言されたのを機に掌板に換え、これは7年間毎日練習したそうである。

1日50本から始めて最終的には1日1000本に至るが、そのように鍛えあげられた掌で打たれると相手は、後ろではなく真上に跳ね上がるという。

筆者が見た譚老師の手は、握ると拳頭の凹凸がなく真っ平であり、開けば掌が異様に分厚かった。

三馬路武館の内部の様子は不明だが、当然八極に必要な練功具は完備していたであろう。

門弟たちは、ひととおり学んだあとは一、二種を選んで重点的に鍛練したと思われる。

同様に六大開等の実戦技も、各自が自分の好みや体格に応じて得意手を選んで練習した。

往年の達人でいえば、王鐘金は頂肘、張玉衡は抱肘、李咢堂は朝陽手をそれぞれ得意としたという。

譚によれば、背の高い人は(上からかぶせる)跨打や大纏、小さな人は(下から潜り込む)頂肘や抱肘等を選ぶとよいとのこと。

「実用本位」それが三馬路武館、いや八極拳の特徴であった。

道場破り

騒然とした当時の世情を反映してか、ときには道場破りも現れた。

長春中の武館を荒らしまわった馬徳山という強豪が三馬路武館に来たときは、周馨武は霍殿閣・慶雲の応援を仰いで撃退した。

このとき代理で立ち会った霍慶雲は、顔面に飛んできた相手の拳を片手でつかんで握りつぶし、激痛のあまり跪かせるという離れ業をみせたという。

馬はその場で八極門に弟子入りし、後には東京で開催された紀元二千六百年記念行事に満州国代表として来日した(1940年6月の東亜競技大会か)。

譚吉堂をはじめ、三馬路武館の弟子たちは猛稽古の日々を重ね、みるみる実力をつけていった。

とりわけ譚は「譚快手」と呼ばれるほど手が速く、中でも得意技は六大開の一手「双纏手」であった。

ある日譚が武館で練習していると、それを見ていた来客が「そんな技は使えない」と笑ったので試合となった。

譚が「どうぞ」というや、相手は拳で突いてきた。譚は双纏でその突きを巻き込み、踏み込んで相手を吹っ飛ばした。立ちあがった男は今度は足で蹴ってきたが、譚が再び双纏で投げ倒すと、三度かかってくることはなかった。

三馬路武館に挑戦者が現れると、霍慶雲を呼びに行く間に譚が相手をし、慶雲が来る前に追い返してしまうのが常だったという。

余談だが、譚老師は筆者に「なぜ双纏をよく使ったかというと、あの技だけが相手をケガさせずに済むからだ」と語られた。師爺の李書文の時代と違い、日本軍の治安当局が目を光らせていた当時の長春では、いくら道場破り相手であっても、そうそう傷害事件は起こせなかったであろう。

また、恨みをあとに残さないためにも、無用な傷を負わさずしかも負けを認めさせる技を選択したのかもしれない。

霍慶雲は常々「こちらから相手を求める必要はないが、もし誰かから挑戦されたなら、タダで帰してはいけない」と語っていた。

もっとも、ときには勝手に他流試合に出向き、問題を起こして霍や周を慌てさせる粗忽者(?)もいたようだが・・・。

八極門の義侠心

武林の人間は義侠心が厚く、師弟の関係は実の親子より深いといわれる。仲間が困っていたら助けるのは当たり前、と老師はこともなげに言う。

言うは易く行うは難しのこの言葉が、八極門ではふつうに実践されてきた。

かつて放浪者同然の周馨武が長春に来たとき、霍殿閣は全面的にバックアップして周の生活が成り立つよう計らったし、後年霍慶雲が貧窮にあえいでいたときは、周の弟子だった譚吉堂や趙丙南らが彼を助けた。

いくら腕が立とうが、敵国の傀儡政権の中枢にあった人間が、180度体制の変わった国の中で生きていくのがどんなに困難かは、想像に難くない。武術を練習しているだけで反革命分子とみなされ、命に係わる時代もあった。しかし八極門は、この恐ろしい逆風の中を鉄の団結と密かな相互扶助で乗り切った。

世情や治安が乱れれば乱れるほど、頼りになるのは己が身ひとつと、そして信頼できる仲間だけ。老師たちの武術にかける取り組みと人間関係の濃密さには、根性とか義侠心という言葉だけでは済まされない切迫としたものを感じる。

事実、譚は武術界の秩序を乱すものに非常に厳しい。また、「一目見れば相手がわかる」といい、譚のメガネに適わない者は千金を積んでも入門を許されない。

三馬路武館の弟子たち

三馬路武館は、譚吉堂の他にも多くの逸材を輩出した。

趙丙南(1910~1975)は、譚の親友で「大力神」の異名をとる怪力の持ち主であり、八極と摔跤を得意とした。公安の摔跤大会で全国3位になったこともある。

その「鷹爪力」の功夫は、伸ばした指2本を大人が両手で曲げようとしても曲げられなかったという。

譚の師範代を長年務めた趙平(1947~)は、10年間趙丙南に教わり、丙南の没後譚の弟子となった。

斉徳昭(1920~2000?)は、1979年南寧で開催された全国観摩大会で金賞を得るなど各種の表演大会で活躍し、後に白求恩医科大学体育科副教授にまでなった。八極に関する研究活動も盛んに行い、「八極拳譜」(1989)等の著作もある。

陳継尭(1925~)は、やはり多くの大会で優秀な成績を収め、武術人名辞典にもその名を連ねている。17歳から79歳の現在(2004年)までその武術歴は60年以上にわたり、今なお長春市武術館で指導の日々をおくっている。その功夫は依然として素晴らしく、特に擒拿術に優れる。

他にも、高理和、陳金財、王学浮など主な門人だけでも百名以上にのぼる。

周馨武の功績

周の没後も存続した三馬路武館であったが、やがて文革の波にのまれてその姿を消した。

だが、周の血脈は譚吉堂ら門人たちに受け継がれ、少数ながら現在もなお、長春には昔のままの八極拳を伝えようという人たちが確かに存在している。

ありていにいえば、周馨武の武術家としての実力は霍慶雲に遠く及ばなかったろう。しかし、その功績には、どんな名人に比しても勝るとも劣らないものがある。

周がもしいなかったら、八極門の譚吉堂もその弟子の李英も存在せず、ひいては日本人の我々も長春八極門に関わることはなかったかもしれない。

また、三馬路武館がなかったら、「八極拳第二の故郷」と呼ばれるほどの長春八極門の今日にいたる隆盛もなかったと断言できる。

三馬路武館―今なお老師たちの口に上るその町道場こそ、幾多の八極拳士を世に送り出し、長春八極門の屋台骨を支えた、まさに「虎の穴」であった。

2004年8月 記 2020年2月 加筆修正
(文中敬称略)

Note
「虎の穴」を知らない方へ。「漫画 タイガーマスク」でググってください。

三馬路武館の跡地は教会になっていた

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2019年現在の東三馬路

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(左)溥儀の居城であり宮内府のあった現・偽満皇宮博物館。三馬路へは徒歩圏内。 (右)詰所の外にある中庭。霍殿閣らはここで練習していた?

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護衛官の控室。霍殿閣・慶雲らがここに詰めていた?

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