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「八極伝説」について

森田 真

ここに紹介するのは、今はなき雑誌「武術(うーしゅう)」1993年冬号と94年春号に掲載されたインタビュー記事「八極伝説」です。

これは、われわれ長春八極門にとってバイブルともいうべき貴重な証言で、霍殿閣(1886-1942)の武館で20歳から4年半にわたり八極を修業した範傳儀という方が見聞した、当時の試合や練習の様子、エピソード等を、潮田強先生と編集部に語ったものです。

30年前の掲載時は前後編で、かなりの量でした。現代の人にもぜひ読んでいただきたかったのですが、全文転記はやはり問題があるため、私の感想を入れつつ部分部分を引用させていただきました。

太字は私の独断による重要部分です。(文中一部敬称略)


範傳儀氏は、取材当時76歳というから1917年頃の生まれと思われます(譚老師1916-2008と同世代)。すると、修業時代は1937年から1941~42年頃ということになり、昭和12年から17年頃、まさに戦争の始まる混沌期にありました。

満州中央銀行に勤めていた範氏は、そこで雑役をしていた王玉湖(霍の弟子)に誘われ、宮内府にあった霍殿閣の道場に入門します。範氏はそれまで効子拳という少林拳を学び、かつマラソンの選手でした。

その後、道場を離れ故郷の大連に帰り、商売を始めるのですが、そこに兄弟子の殷清和(1910-?)が尋ねてきます。殷は、範氏のかつての少林拳の梅老師に試合を申しこんだのですが、老師は断り、代わりに大連で一番有名なA老師を紹介します。

A老師は、強いが高慢なため大連の老師たちからはニラまれていたそうで、梅老師も腹に一物あったようです。

Aはちょうど弟子たちを教えている最中だった。 殷清和は入っていって、符牒を使ってあいさつした。武術家の世界には、彼らだけで通じる暗号のような言葉があるんです。私にはわからないですけどね。

Aは強いからね、もう誰が来ても問題ない、それで向こうむいたまま返事しないんです。そして殷清和は、 「あなたの教えている拳は何門の拳ですか?」 と聞いた。でAは、 「私の拳は門がありません」

いちばん失礼な返事だ、これは。それで殷清和は、 「そうか、門がないか。それじゃ、私の拳をあなたの門のない拳に、ひとつ見せたい」

それで上着を脱いでね、試合をしようとしたんです。Aは、私の師兄(殷清和)に勝てるかどうかわからないからね。それでこういった。 「あなた、試合したいの?今日やったらあなたと私の二人だけだから、結果を見届ける人がいない。だから、日時を約束して、その日やりましょう」

殷はよろしい、といって、日を決めた。

それで当日行って門を開けて入ってみると、もう満員だ。ごつい体をした人間がいっぱい並んで立っている。私が殷の顔を見ると、殷は他を見ないで、まっすぐAの顔だけ見てる。そしてAはいいました。 「今日あなたは試合をしに来たのだから、まずわれわれの拳がどんなものか、まず全員に表演させて、それからやりましょう」

この「符牒を使った挨拶」で、殷とAとが江湖社会に関わりがあることがわかります。

また、相手が人数を集めて威圧してきても、余計な情報は遮断する、という場慣れぶり。

この他にも、範氏が商売がらみで瀋陽のヤクザ38人に脅されたとき、殷が単身乗り込んでいって話をつけたという逸話が紹介されています。タダ者じゃないです、殷清和は。

で、殷はまずA老師の孫弟子(のちの遼寧省チャンピオン)と手合わせします。

「あなたは、何の試合がしたいのか」

つまり、刀とか、槍とか、それとも拳か、という意味ですね。殷は答えた。

「私は、武器はまだ習っていない。拳だけしか知りません。拳で試合しましょう」 「謙遜でしょう。槍でどうですか」

槍といっても先端に穂先のついてない蠟木杆という棒の部分だけ。これを使って槍のやり方で試合する。これでも突かれたら大変ですよ、硬いからね。

そして、その蠟木杆を渡す時にも作法があって、受け取り方でその人の武術がわかるわけです。殷はそれもよく知ってる。そして両方とも構えて、殷がいった。 「あなたが先に突きなさい」

すると相手は答えた。 「私は主人の側で、あなたは客なのだから、あなたが先に突いて下さい」 殷はまた答えた。 「あなたは十八歳だから、あなたが先に突きなさい。私の方が年が上だ」

それで相手は蠟木杆で突っ込んできた。

わたしも槍は習った。でも、あの時の試合を見ると、もう私の目では全く見えないほど速い。槍の技にはハネ上げたり、打ちおろしたりといった技があるけれども、この試合ではそんなヒマはないんだ。ただ突いて、それを受け流し、巻き落として、また突く。これをお互いピュッピュッともの凄い速さで往復して攻防するだけなんだ。

それで十回くらい応酬があったかな。殷がね、相手の突きを外すと、その杆を弾き落としたんです。相手は杆を放してしまった。すかさず殷は杆で胸を突いて、相手を突き倒した。相手は真後ろに引っくり返ったんです。

その時、私は初めて殷の武術の凄さがわかったんです。中国の武術では、倒されてもサッと起きるんですよ。でも殷は相手を倒すやサッと飛び込んで、指でノドを押さえたんだ。相手は声も出せずに両手でまいったという合図をするのがせいいっぱいだった。本当に、猿みたいにすばやく飛び込んだな、殷は。

殷が手を放すと、相手は 「分かりました。勉強になりました」

それでこの人はさがったんです。殷はひとこと、 「さあ、次は誰ですか」

Aが次の弟子を指名しても、みな怖気づいて殷とやろうとしません。ついに、殷はAを引きずり出します。

「他の人にやらせず、先生、自分でやりなさい」

とこう呼んだんですけどね。すると60歳くらいの大連でいちばん強いこの人が、咳払いかなんかしながら椅子から立って出てきたんですよ。そしてさっきの孫弟子が落とした杆を拾ってね、構えた。

ふつう、槍の構えは左足を前にして、右手で後端を持って半身に構えますね。でもAの構えは違うんだ。右足を前にして、日本の剣道みたいに構えるんだ(範氏の示した動作は、剣道の正眼の構えと同じく、両手で柄を持って中段に構えるものだった)。

そして、殷に向かって、遠慮なく攻めてきた。もうこの速さはね、普通じゃないよ。パパパパーッとね、連続して打ってくる(剣道でいうと面の連打)。私の師兄はね、これを受けるヒマもないよ。この技はね、後で聞いてみたら梅花乱点頭、こういう名前らしいんだ。

Aの猛烈な連打で、殷はどんどん下がってね、壁まで追いつめられた。もう下がる場所もない。私も心配になってね。ちょうどその時、殷師兄はね、さっきと同じ方法で、相手の杆を叩き落とした。

それで落とすとすぐね、これは本当の武術だ、私初めて、この三流の師兄(笑)の武術の凄さが分かったんですよ。落とすとすぐに、真正面からAの両肩をつかんだんですよ。

このAがね、どんな人間かっていうと、ちょっと拳を出せば相手は死んでしまうよ。 それにこの人は背が高い。殷師兄は低いから、手を上に伸ばして肩をつかんでいる。 相手は両手があいているんだ。それでAはなんべんも手を出して殷を打とうとした。 でも、何べん出しても拳が出ていかないんだ。少し動くだけで、届かないんだよ。 向こうは正面向いてるでしょ。殷は両手がふさがっている、本当ならちょっと手を出したらいっぺんで終わりのはずだ。

そうするとね、Aはつかまれたままだんだん低くなっていった。私は椅子に座ってみていたんだが、最初は私より高かったAの頭がだんだん低くなって私の目と同じ高さになって、ついにそれより低くなったんだ。

試合はここで、Aの妻の乱入により中断となります。

あわや弟子たちとの大乱闘、というところで、当時珍しい背広姿(日本軍の手先かもと警戒された)の範氏が仲裁に入り、どうにか収まりました。

さて、このくだりから、武術家が場合により徒手のみならず武器の試合も求められること、槍の場合は格下から攻めるルールがあるらしいこと、勝敗のつけ方は臨機応変であることが見られます。

ここで、拳でしか試合できませんと言おうものなら、その程度の腕で挑戦しに来たかと笑われるのかも。関節技以外の、こういうギブアップのさせ方があろうとは。また、Aの劈槍連打は、戦国時代の集団戦のような非常に特異な攻撃でした。

「あしたのジョー」のファンなら、殷清和の肩押さえを「あれか!」と思うかも。でも、こちらの方がはるかに前なんです。こんなやり方、教科書(套路)には載ってません。

殷清和は長春に帰って、霍殿閣にもの凄く怒られた。 「お前はなぜ私に何も言わんで、黙って大連へ行ってあんなことをするのか。万一お前が負けたら、八極拳と私の名誉を汚すんだ。霍慶雲なら問題ないが、お前は三流だ」

そんなに強い殷清和も、霍慶雲には敵いません。その霍慶雲も・・・

でもね、殷はやっぱり霍殿閣の弟子の中では三流なんだ。 ある日の夜、私は見たんだ。殷清和と霍慶雲が接拳(八極対打。お互いに決まった動作で攻防の練習をする)をやった。 接拳には大纏がある(相手の体に体当たりしながら、足と手の間に挟んで倒す技。接拳は自由組手ではないが、技をかけ合うことで功夫の差がはっきり出る)。 殷清和が大纏をかけても霍慶雲はビクともしないが、霍慶雲がかけると、殷清和は相手の腕に鉄棒みたいにぶらさがっちゃうんだ。もうね、足は地を離れているんだ。

それを見た霍殿閣が立ってね、 「霍慶雲はそんなに強いのか?私がちょっとやってみよう」

その時、私は初めて見た。ちょっとかけただけでね、霍慶雲は倒れちゃうんだから。霍慶雲は霍殿閣よりダメ。

八極拳では、滑杆子と接拳が実力を測るバロメーターでした。とりわけ大纏は、安全かつ明確に差が出る投げ技のため、さかんに掛け合いがされていたようです。

試合というより、もはやカチコミ。型や鍛練を熟しただけで、殷清和のような戦いができるようになるとは思えません。この後わかりますが、範氏も相当な功夫の持ち主なんです。が、カタギの範氏と殷やAは住んでいる世界がまるで違う、と私は感じました。

範氏は、殷清和の別の試合も目撃しています。1946年、瀋陽で開催された擂台試合ですが、実は遺恨試合で、主催者の候は殷の師兄弟である陳金財(1911-2000)を不意打ちで傷つけたことがあり、殷はその敵討ちをしようとしたのです。候は試合には出ませんが、その息子が出場するので、勝ち抜けばいつかは息子と当たるわけです。

その陳さんが、瀋陽でこの候と試合をやったことがあるんです。拳じゃなくて、剣で。 この剣は、木の剣だったんだけど、非常に固いんです。 それで、その試合で陳さんは勝ったんだけど、陳さんは殷さんと違って頭が悪かった。 この陳さんは試合に勝った後、すぐ頭を後ろに向けて去ろうとしたんです。 そのところに、この候が後ろから剣でこう、パーッと肩のあたりを強く打ったんです。 で、すぐ陳さんは血を流してね...。

だが、主催者の候は殷の遺恨を知っており、抽選を操作して息子と当てさせません。

だけど、当たらなくともこの息子も強いからね、何百人の試合でずぅーっと勝って、だんだんだんだん落とされて、最後には七人が残ったんです。 そして殷もこの七人の中に残りました。 擂台で私は殷さんの戦い方を見たんだけど、もうすばらしいよ。姿勢がまず正確、崩れないんです。 もう、みんなビックリしたよ。 相手がどう来ても、パーッ、パッと飛び込んでね、剣をサーッと刺すんです。 私、もうビックリしたよ。

候は結局、殷と息子が当たる前で試合を終わらせてしまい、ゲストの国民党将軍から上位7人に賞品を渡されます。 が、平民の殷はその賞品を地に叩きつけ、将軍を睨みつけました。将軍は怒りましたが、殷の気迫になにも言えません。こういう命知らずを、中国語でピンミンというそうです。

殷清和は、腕が立ち権威に屈せず、義気あふれる「武侠」でした。

でも、今考えてみると、武術を習う人で、インテリの人はあまり成功していません。 殷は、労働者だ。金もない。陳も同じです。こういうような人が、もう命をかけて練習する。 中国では、金持ちは武術をそんなにやりません。

その殷清和が、街中でスリを捕まえた話があります。殷は瀋陽で、一人5元で八極拳を教えていたのですが、それだけでは食べていけないので、毎朝市場でブドウを仕入れ、それを街で売って生活の足しにしていました。その小金を、スリに狙われたのです。

で、ある日案の定、そのスリが殷清和の後ろポケットに手を伸ばしてきたんです。 盗もうと思ってね。ところが、殷さんは八極拳をやっていた。 武術は戦いだけじゃなく、生活すべてのことにそれが現れるのが本当の名人だ。

...それで、スリが手を入れたところが、殷さんにはすぐに分かったんです。 で、殷さんはスリが手を入れた途端に後ろも向かないで、誰が手を入れたか全然気にせずにスリの手をポケットの上から押さえたんです。それで、知らん顔して押さえたまま歩くんです。

スリは手を取ろうとしても取れないんだ。その位殷さんの手は強いんです。 それで、そのまま殷さんにくっついて行かされちゃった...これはもちろん私が聞いた話だけど本当の話です。 彼らは作り話をしません。

殷清和がロシア兵4名を倒した逸話もあります。武器を持ったロシア兵に囲まれ、乗っていた自転車を奪われそうになったときのこと。

殷さんは、ロシア語が分からなかったんだけど、顔を見ると、自転車が欲しいと言っているようだ。それで殷さんは、 「それでは、あげましょう」 って言って、自転車から降りてスタンドをかけたんだ。ところが、スタンドをかける瞬間、ロシア兵がみんな渡すと思ったその瞬間に、殷はロシア兵四人をみんな倒してしまったんだ。 殷は手が速いよ。殷清和には、これらの話だけでなく、いろいろな試合の話があるんです。だから、霍殿閣の弟子たちは、その頃は三流といっても、皆強いよ。

このときの殷の使った技は、劈掛拳ではないかと思います。倒発烏雷(転身劈掌)など、劈掛は多人数相手の乱戦が得意、という印象があります。ましてや鉄砂掌等で鍛え上げた手の持ち主です。

範傳儀氏は、譚老師とは別の宮内府の武館で練習していました。その範氏の聞いた、三馬路武館の道場破りの話があります。

三馬路(長春にある通りの名前)に周馨武という先生がいました。 この先生は、李書文の弟子で、霍殿閣の仲間です。 李書文の弟子は、霍殿閣だけじゃないんです。 この人は、もと戳脚翻子という拳法をやっていたんですが、李哦堂(李書文の養子)と試合をやって負けて、それから八極をやるようになったんです。それで新京の三馬路で八極拳を教えるようになったんだ。

その頃新京に山東省から馬徳山という人がやって来た。 彼は、「山東好漢」と言われて、地元で有名な男だったんだ。 当時、新京には十三の武道場があったんだけど、この人は新京に来て、八極拳以外の全部の武道場に行ってね、武道場の先生を全部倒しちゃったんだ。 つまり、道場破りね。中国ではよくこういう事をするんだ。 それで、この人はその後で三馬路に来て、周馨武に試合を申し込んだんだ。

馬の腕を怖れた周は、試合の日を後日にずらし、霍殿閣に助っ人を頼みます。

それで、試合の日にね、霍殿閣は全部連れて行ったんだ。宮内府の弟子たちを。で、試合になって、馬徳山が出てきた。それを見て霍殿閣はね、周馨武に尋ねたんだ。 「今度、試合をしたいというのは誰ですか」 って。それで周馨武は入って来た男を指して、 「この人です」 って答えた。すると、霍殿閣はそれを見て、 「この程度の相手なら、わざわざあなたがやるまでもない。霍慶雲だ。霍慶雲をやらせなさい」 って言ったんだ。それで霍慶雲が出ていったんです。

馬徳山はどんな人とでも試合しますっていう人間だからね。霍慶雲に遠慮なく攻めていった。そうそう、この時、私はその場にいなかったんです。ずっと銀行に勤めていたからね。このことは王玉湖(範氏の兄弟子)が見たんです。

それで、馬徳山は、遠慮なく霍慶雲を拳で突いて言ったんだけど、霍慶雲は何の姿勢もとっていない。 立ったままだ。それが、馬徳山が突いていったとたんに、その拳をパッとつかんでしまったんだ。 馬徳山はそのまま動けなくなって、しばらくしたら汗が出てきた。 痛くてね。そして、霍慶雲がつかんだ手を下げていくと、馬徳山はそのまま地面に座り込んでしまったんだ。

そんな風に簡単に負けてしまったからね、馬徳山はすぐその場にヒザをついて、霍慶雲に、 「どうぞ、私の先生になって、私に教えてください」 って、頼んだんだ。それで、馬徳山は霍慶雲の弟子になったんです。

馬徳山は、別の資料によると摔跤の使い手だったそうで、俗に拳術三年やるより摔跤一年のほうが強いといわれます。套路中心の拳術に対し、組打ちを主とする摔跤は、試合の経験が豊富ですから。

範氏は、この馬徳山が日本に行き、日本人と戦ったという話を聞いています。 内容は、その時が日本の建国2600年に当たる年で、日本の招聘で満州国親善のための武術大会が開かれたこと、霍殿閣は新京代表を出させなかったが、馬徳山が立候補したこと。霍は渋々承諾し、馬徳山ら15名が満州国各都市代表として訪日したこと、馬徳山は「山口」という日本の空手家と拳と剣で勝負し、勝ったこと等でした。

ただ、開戦前夜の、中国側にとっては屈辱的な国威発揚行事への強制参加です。当時の新聞を調べましたが、武術大会の記録は見当たりませんでした。 ちなみに東京朝日新聞によると、昭和15年6月5日から9日にかけて、神宮外苑にて民族スポーツの祭典が行われ、関係各国の代表によるパフォーマンスが披露されています。

そして、「山口さん」が馬徳山の師を尋ねて、新京にやってきます。迎えた霍殿閣はその夜、野天に演武場を作りました。

で、山口さんはやって来たんですよ。それで、その場でですね、山口さんは表演をしたんです。 私はそれを見ました。山口さんは、二センチくらいの木の板を、何枚かなあ、そう、三枚から五枚位机の上に置いてね、この上に手を置いて、『ハイッ!』って言って全部一辺に割ったんです。

それから、空手を表演したんです。あれはねえ、私には全然理解できなかった。 気功の一種の様でしたね、強く息を吐いて。 でもね、霍殿閣は表演しないんです。 霍殿閣はずっと座ったままで、霍慶雲と馬徳山に表演させたんです。

結局、山口さんは霍殿閣とも霍慶雲とも試合をせずに、そのまま演武は終わってしまいました。その後、みんなで一緒に写真を撮りました。

たった一晩の出来事に、驚異的な範氏の記憶力。「山口さん」の「強く息を吐く空手」は、よほどの印象を残したのでしょう。

新京時代、霍慶雲は日本人の剣道家に挑戦されたこともあります。

それで、試合当日になったんだけど、剣道をやる時は防具を着けるでしょう。 それで、その日本人も霍慶雲に防具を着けるように言って、自分も防具を着けたんだけど、霍慶雲は着けようとしないんです。

霍慶雲は最後まで防具を拒否し、素面素小手で向かいます。

試合が始まると、霍慶雲は片手で構えました。 中国の剣や刀は片手で持ちますから、日本の竹刀も片手で構えたんです。その日本人は六段だったけど、彼は霍慶雲に向かって 「面!」 って、言ってパーッと打ち込んで行ったんです。

すると、霍慶雲は打って来た竹刀をスッと受けると、その竹刀にくっついてしまったんです。 普通、面を打ったら次は胴とか、変化するでしょう。それができないんだ。霍慶雲は六段の日本人の竹刀に、何と言うか、粘り付いてしまったんです。 当然竹刀は当たらなかったんだけど、日本人がいくら引いても引っぱれなくなったんです。 いくら引いても、霍慶雲がくっついて来るんだから。 日本人は、攻めようとしても攻められない、逃げようとしても逃げられない状態になってしまった。

それで、その六段の日本人は、何もできなくなったところへ霍慶雲が前に出てきたので、壁まで下がってしまった。 下がって壁に押し付けたところで、霍慶雲は片手でその日本人の面をダダダダダッてそれは猛烈に連打したんです。周りの人が割って入って、 「もうやめなさい、やめなさい」 って言って止めるまで、霍慶雲は日本人を打ち続けたんです。

この話は私が直接見たのではなく、弟子たちが見たのを聞いたんだけれど、中国の武術は使えるか使えないか、試合してみないと分からない、ということです。戦って初めて分かるんです。私は、殷さんが大連のAと戦うのを見て、初めてそれが分かりました。

李書文と同じ密着戦法。いわゆる沾連走随ですが、実戦でやってのけるのは凄いことです。範氏は、自分の目撃と他人からの伝聞とを、はっきり区別しています。

次に、私の最も好きなくだり、霍殿閣の道場での練習内容の話です。

私は、八極拳(大八極)と小架と六大開、それから八極式(金剛八式)、それだけ習いました。 応手拳(霍殿閣の系統にある套路)は知りません。易筋経(霍殿閣の系統にだけ伝わる気のトレーニング法)は殷清和から三つだけ習いました。 易筋経を知らないと、完全な八極ではないんです。 霍文学(霍慶雲の次男)が言うには、「易筋経は八極拳の中で、一番重要なポイントだ」ということです。

それに、八極拳には確かに秘密のものがあるんです、確かに。 そうでないと霍殿閣たちはあんなに強くないですよ。 もう殷清和たちと全然違うんですから。 噂によれば霍殿閣は死ぬ前に、霍慶雲を彼の部屋に呼んで、まだ教えていないことすべてを教えたということです。

4年半の練習で、金剛八式・小架・大架(接拳)・六大開。オプションで易筋経3路まで。十分フルコースです。 よく銀行員をやりながら毎日練習に通えたものです。それにしても、「秘密のもの」って何でしょう。

八極拳を習うには、忍耐力がないとなかなか成功しないです。 私は毎日夕食の後、十一時まで練習しました。朝はやらずに夕方だけです。 武道場に入って、まず鉄砂袋を置いてみんなでやるんです(鉄の粒のつまった袋を打つ練習)。

それから靠樁。これはよくやりました。(肋骨の部分で)木に体当たりするんです。 普通は痛いでしょう、こんなところをぶつけると。私はもう五十年程やってないけど、今でも体当たりしたら、これ位(直径六十センチ程度)の木なら動きます。 四年半の訓練だからね、今もこういう所が強いもの。 ほかにも粘土でできた重りを振り回したり、木の杭を打ったり、いろいろな練功方法がある。

こうした練功を一時間くらいやったら、次は小架をやる。

どのくらいやるのかというと、

一時間かけて小架をやる。これは辛いよ、一つの姿勢でじっとしてね。 でもね、霍慶雲が姿勢を直してくれると、スッと気がとおるのがわかるんだ。あの人に習うと全然違う。 こういう訓練をするんだから、忍耐力がないとダメなんです。

私自身は八極拳(大八極)を一番練習しました。それと小架。これらは今でも全く忘れていません。いまでもすらすらできる。一番好きなのは接拳(八極対打)です。

「姿勢を直すと、スッと気が通る」この部分が大好きです。下盤の強化もあるけど、小架はこちらの方が大切かも。

範氏は殷清和などと違い、あくまで趣味で八極を習っていた人です。試合もケンカも経験はありません。が、身を守ったことがあるそうです。

銀行に勤めていたころ、私がカバンを持って歩いていたら、三人のチンピラがきて、 「その鞄をよこせ」 ってひったくろうとしたんだ。当時としては珍しい背広を着ていたから、金を持っていると思われたんだろう。

ところが、気がついたらその三人は倒れているんだ。私自身も何をやったか覚えてないんです。

八極拳の技を使ったのですか、と聞かれると

いや、技なんて使ってない。 大体私は技の使い方を習ってないんだ。技もなにもなくて、ただ弾き飛ばしちゃったみたいです。 相手はしばらく立ち上がれなかったから、私はそのまま立ち去りました。

霍殿閣の道場では、みんな狂ったように練習していましたが、用法はあまり教えてもらえませんでした。ただ対接はずいぶんやりましたけどね。 このときは道場を離れて二、三年たっていましたけど、功夫がまだ残っていたんですね。 考える前に手がサッと出て、すごい威力がある。自分でもびっくりしたな。 この時、八極拳のすごさを身をもって知ったんです。本当に、ほかの拳法と全然違う。

文革中、範氏は「資本主義の走狗」とされて迫害を受けたそうです。

あるとき、若い男が私に 「この資本家め!」 と言って殴りかかってきたんだ。大きながっちりした男で、力も強かった。 胸を殴ってきたので、かわさずに呼吸で弾き返した。 二発弾き返して、三発目を殴ってきたので、今度はかわすと同時に手をちょっと引いてやったら、すごい勢いでドアに突っ込んで行って、ノブに頭をぶつけて血を流して倒れてしまった。 攻撃を弾き返すのは、木に体当たりするのと同じ要領なんです。八極拳は打つと自然に気が出てくる。

4年半毎日練習したからこその、この功夫。「気口」を体が覚えていたのでしょう。

強盗を撃退したときは、私の想像では、カバンを胸に抱えたまま体を左右に振って、体当たりで相手を弾き飛ばしたのではと思います。こんな密度の練習をしていれば、普通の人とは体の重さ、硬さがもう全然違うはず。

昔の道場では用法は教えない、というのが印象的です。戦前の沖縄空手も同様だったそうです。ケンカに使われないようにというよりも、用法を限定しないためかもしれません。

危機に臨んで自然に体が動いていた、という武術家の理想を、アマチュアの範氏が体現していたのです。

今(2023)から約30年前には、まだ解放前の国家統制の及んでいない社会とその武術を知っている生き証人が、まだかろうじてご存命でした。また、ネットも普及していない当時、「武術」誌は、中国武術を知るほぼ唯一の手掛かりでした。私にとっても、この雑誌なくば李英老師や長春八極拳にも出会えず、いまの研究会は存在しなかったといえます。

ネットで何でも見聞きできる現代ですが、こんな情報はまず今後出ることはないかと思い、紹介させていただきました。