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趙平老師へのインタビュー記録

R1.12.30 (文責 森田真)

Q.1 譚老師の、「武術を使うための練習」にはどういうものがありましたか?

  • 例えば、こういう練習だ(相手の突きを片手で掛け受け、腰に引き込む)。 瞬発力が大事で、三盤(肩・腰・股関節)を合わせる。相手の腕だけの力に、こちらは三盤の力で対抗するのだ。 対人感覚やタイミングを掴むための練習でもある。
  • 他に、小架も非常に重要だ。
  • ネイ(手編に寧)腕(手を掴んで捻る)を常に練習して、握力や抓力を強化すること。相手の脈を切る(手甲の穴脈を押して痛める)のだ。いつも練習して、考えずとも自然にツボを掴めるようにならないと、使えない。
  • 不招不架、見招打招
    • 例)
      • 相手の上段突きに対し、内側から受けると同時に同じ手の拍掌で顔を打つ(提肘面掌)。
      • 相手の中段突きを、上から押さえざま裏拳で顔面に返す。
    • 受けると同時にすぐ返す。無意識に、自然にできるようになるまで練習する。
    • 考えていては遅い。速さ(目の速さ)が大切。
    • 口では教えられない。身につくまで練習すること。
    • 我々は、老師と老師の師兄弟との会話などから学んできた。教わるだけでなく盗むんだ。
  • 捜肚や抱肘などで、横に出してから、瞬間的に寸勁で下に落とす。これも、そうやって学んだ。
  • 死んだ力を生きた力に変える。
  • 手法は、李英から学びなさい。
  • 他に、先生を飲ませて話を引き出す。慶雲公はしばしば譚老師に酒席で型をやらせ、その場で直してやっていた。

Q.2 趙丙南老師(1976年没)の練習は、どういうものでしたか?

  • 金剛八式と滑杆子をよくやらされた。
  • いちばん注力したのは、大纏だ。文革中、老師は門を閉じて弟子を外に出さず、庭で練習していた。当時公安の庭には枯れた大きな木があり、老師は上を切って横に腕くらいの太さの穴をあけ、横棒を通して木人を作り、これで大纏の練習をした。挟む力を鍛えるためだ。大纏はよく練習した。今でも自信がある。
  • 老師は、足が悪かった。骨が曲がっていた(後天的な理由らしい)が、とにかく力が強かった。
  • 大纏は、二人で互いに練習しないと力がつかない。互いに、咬む力をぶつけあう。
  • 譚老師は、挨膀斉靠が得意だった(大纏の返し技)。相手に大纏をかけさせて、密着した瞬間に抖勁でハネ返すのだ。これはタイミングが重要で、遅すぎても早すぎてもいけない。

大纏

Q.3 趙平老師のエピソードをなにか

  • 陳継尭(譚老師の師弟)老師の弟子たちと、交流したときのことだ。互いに大纏を掛け合ったが、彼らの技は私には掛からず、私が掛けるとみな、右でも左でも吹っ飛んだ。その中の尹さんという人に頼まれて大纏のコツを教えたら、その人は仲間を投げ倒し、仲間から私に文句をいわれたものだ。
  • (李英老師談)譚老師の門下生はみな、手が速くて重い。技のキレがある。他の先生の弟子は、譚門下生に近寄らない。

  • 南関区での武術指導のとき、体が大きくて挑発的な者がいて、「自由に手を出してよいか」と聞いてくるので、仕方なく「どうぞ」と答えた。殴ってきたのを投げ倒したら(横梱双纏)、次は「蹴ってもよいか」という。足を出してきた瞬間に左手で足の甲を押さえ右手ですくったら、相手は見物人の中に吹っ飛んだ。 そのときは、何も考えず自然に体が動いた。何をやってくるか分からない相手に、考えていては遅い。体に染み込んでいれば自然に体が動く。

  • 単式は、すべて練習することはないが、1つ2つは得意を作るとよい。
  • 「これは使えるのか?」と聞いてくるやつは、いっぱいいる。

趙老師夫妻

小纏のエピソード

  • 譚老師に「小纏は使えるんですか」ときいたビンさんという李英老師の同期生がいた。老師は、そんなこといわれたらタダじゃ済ませない。一発でヘコませ、翌日彼は腕を吊ってきた。
  • 李英老師の叔父さんも、「小纏なんか掛からない」と嘯いて譚老師にヤられ、「半年たってもまだ痛い」。
  • だが、小纏は功夫がないと掛からない。何年やってても使えない人はいっぱいいる。

  • 王さん経営の食堂で、酒を飲んだときのこと。擒拿の得意な劉さんという人が、「八極の小纏は効かない」という。私(趙平)にかけてみろというので、(実は自信がなかったのだが)試しに掛けてみたら、掛かる気がした。1回2回3回と、決まる手前で止めたのに相手はわからない。4回目に思いきり決めたら、劉さんは(蹲るだけでなく転がって)テーブルの下に突っ込んだ。手首を痛めて、彼は料理の皿も持てなくなってしまった。(←これを通訳してくださった李英老師が「ホントだよ。小纏で送ったらそうなるよ」と実演し、ADの谷地舘君(誰がADやねん)をアリガタクも転がしてくださった)

Q.4 現代武術について

  • 大きな違いは、例えば太極拳は、健康にはよいが套路ばかりで功夫の練習をしていない。伝統武術とは目的も内容も違う。われわれの八極はモノを叩いて功夫の練習をしているので、勝てるかどうかは知らないが、手出しされたらやり返すことはできる。
  • いまの太極拳は、太極体操になってしまった。動きは優美だが使えない。膝を痛める人が多い。

Q.5 太極推手と八極単掛手

  • 体育館で教えているとき、単掛手を教えていると、太極拳の先生が見て「推手と似てるな。ちょっとやってみないか」という。「モノが違うからやりたくない」と断っても聞かないので、少しやってみた。胸の前で何度か寸止めで止めても、相手は無言で、そのときは終わった。だが、翌日譚老師が聞きつけて、その先生に「私の弟子に用があるなら、まず私を通せ」と迫った。その人は、それきり二度と現れない。
  • 我々はまっすぐ。太極推手は円を描く。我々は、流したらすぐに反撃する。咬んだらすぐに外して打つ。爆発力は難しい。瞬間にバネの力で爆発する。
  • ガチにぶつかるのはだめ。力比べが目的ではない。

v.s.現代散打

  • 師範大学の4年生、自由散打の選手が、「何が違うか」聞いてきた。断ったが、頭を蹴ってきた。とっさに両手で押さえて胸の前で拳を寸止めした。相手も(伝統武術も反応できると)納得したようだった。(←これを訳してくれた李英老師いわく「寸止めはよくない。僕なら入れてるよ」)

Q.6 単式練習の数は、昔は多かったのですか?

  • 昔の先生は、あまり教えない。だから金剛八式を繰り返すしかなかった。小架、八極拳、接拳、六大開、それくらいしか教わらないが、譚老師は応手拳や武器も教えてたから、他の先生の学生が私たちをうらやんだ。

Q.7 他の先生のレベルは?

  • 互いの弟子が接拳をやると、老師の面子がかかるから皆必死だった。裏技よりも功夫比べに重点がおかれた。他の学生との対打は、リズムや内容はあまり変わらないが、やはりレベルの差を感じた。

Q.8 霍慶雲公の印象は?

  • まさかそんな有名人とは思わなかった。いつもキセルをくわえ、黒い服を着て素朴な感じ。パッとしない見た目で、身長は167~8cmくらい。練習を見たことはない。病気になられたとき、譚老師とお見舞いに行った。面倒を見る人がいないため、次第に重くなった。

Q.9 馬歩の高さについて(慶雲公の大架の写真を見せて)

慶雲公大架

画像はFacebookより引用

  • 低くするのは微かでよい。腰が低ければよいというものではない。爪先は内、膝は外に開き、尻は出さず胸を張らない。円襠を意識する。

孫少亭老師談 :

昔の人は、みな高かった。今の武術が低くするのは、そうしないと点数が取れないからだ。斉徳昭先生も以前は高かったが、表演会に出るようになって低くなった。譚老師は低く見えるが、背が小さいからそう見えるのだ。 あまり低くすると、膝を壊すし動けない。実戦のためなら、動けないと。それに年齢のこともある。この写真の慶雲は、たぶん70歳代ではないか?老齢になると低くできなくなる。

李英老師談 :

たしかに低くした方が功夫は早くつく。でも、膝を痛めやすい。僕も低くないでしょ?高い馬歩で功夫をつくるには、やはり意識が大切。しっかり地面を掴み、股間のアーチを意識する。

孫少亭老師談

孫少亭老師の談話

「私は、8歳で八極を始めた。16歳で一度辞めて武術隊に入り、全国各地で表演した。

昔は八極拳は人気がなかった。その後武術隊を辞めてから再び八極拳を習った。八極が脚光を浴びたのは、83年以降だ。」 

「昔は、軍隊で八極をやった。李書文は、旅をしながら試合して腕を磨いた。霍慶雲は、学はないが人格が高く、周囲と団結し友好的だった。譚老師は、(技や套路の)数はいらない。とにかく実用本位で頑固で短気、すぐ爆発した。慶雲は、練習も指導も套路も実用も、何でもできる。当時は、慶雲公の下ですべてまとまっていた。今の長春はまとまらないが、将来に期待したい。」

「南から北まで、全て調べた。夜戦刀、春秋大刀、全て調べた。八卦剣は、霍慶雲が宮内府の八卦掌使いから学んだものだ。」

「慶雲公の、槍の試合を一度だけ見たことがある。長春で表演会があり、採点が不満で運営の私に文句を言いに来た他省の選手がいた。そいつに誰かが「三馬路武館にいる霍慶雲が、長春の武術界のトップだ。そいつに勝てばいいのだ」とそそのかしたらしく、慶雲に会いに来た。はじめ慶雲は、「どうぞ座ってください」というと、堂々と椅子に腰かけた(武術界の常識で、他道場で座るのは非常に失礼な行為)。「どれくらい武術を練習されてますか?」「〇〇年です」(ふつうはここは謙遜するべき所)

あまりに態度が大きいのでついに慶雲も怒って、穂先のない槍を相手に渡し、自分は片手で持って先を地につけたまま「どうぞ」。

相手が喉を突いてきた瞬間、慶雲の槍がからんだかと思うと帯環槍で手放させ、足元に槍を引き込んでおいて丸腰となった相手の喉に槍先をつきつけ、降参させた。「次は刀でやりますか?」「いえ、もう結構です」

「武術をやる上でいちばん大切なのは、目的をはっきりさせることだ。健康のためなら、套路をやればよい。使いたいなら、拳・掌・肘すべて鍛え方が異なる。必要に応じて鍛練法を選ぶべきだ。」

おわりに

趙平老師は、72歳。3年前に脳出血を患い左半身が不自由だが、頭と口はご健在で、長時間の質問に快くお答えいただいた。

孫老師は80歳の誕生日を翌日迎えられるとのこと、室内でも杖が必要だが、ご著書「長春八極拳全集」の写真は70歳の時に撮影されたそう。その中では、難度の非常に高い易筋経全八段を、すべて演じられていた。

これは、往時の長春八極拳の全盛期を知る御二人の、李英老師の師兄による貴重な体験談であり見聞録であり、また武術観である。