張世忠老師を偲んで
八極拳研究会代表 森田 真
当会会長・張世忠老師は2000年11月13日午前0時20分、中国杭州のご自宅にて老衰のため逝去いたしました。 享年89歳でした。ここに哀悼の意を表するとともに、張老師の人となりを一端でもご紹介できればと思い、生前老師に伺ったことをもとに作った拙文を寄せさせていただく次第です。
張世忠老師小伝
(この項、敬称略)
張世忠は1912年1月15日、河北省静海県に生まれた(1911年生まれと公表されていたが、12年と聞いた)。農家の六男で、上に5人の兄と1人の姉がいた。
生来武術が好きで、幼少の頃より近在の武術家に少林拳を習い、20歳で天津にあった河北省立国術館に入校した。
河北省立国術館は、中央国術館の下部組織の一つであり、軍閥を引退した許蘭洲が設立したものである。 初めは天津、後に北京に移転した。顧問には、孫祿堂も名を連ねている。 3年課程の全寮制武術学校であり、指導はもっぱら副館長の高仙雲が受け持っていた。
張はここで、初めは太極拳を学んでいたが、やがて許蘭洲館長の長男である許家福の目にとまり、選ばれた数名の仲間とともに特別に八極拳を学ぶこととなった。 この許家福の師が神槍・李書文であった。 許蘭洲がまだ軍閥の長であった時代に、李書文を招いて子息たちに武術を教えてもらったのであり(一説に1920年頃)、当時の副官が霍殿閣であったという。
張は毎日、昼間は他の学生と共に普通の武術を習い、夜の8時から10時、ときには12時近くまで許家福の特別教授を受けていた。 指導は厳しく、ひとつの技ができなければ先に進むことは許されなかった。 また、練習は秘密で、他人に八極を見せないように厳命されていた。
国術館時代に、張は生涯に一度だけ試合に出たことがある。 フルコンタクトの散打試合で、顔面なしのルールであった。が、相手の胸を狙ってだした掌が、相手が胸を反らしたために滑って鼻を突き上げてしまい、鼻血が止まらなくなって「反則負け」になってしまったという(この話を聞いた当初はまったく気づかなかったのだが、その状況をよく考えてみるに、張の踏み込みのいかに鋭く、深いものであったことか!)。
3年の課程を終える頃には、50人いた同期生がわずか4、5人にまで減っていたが、残ったのは八極拳を学んだ者ばかりであった。 張は卒業後も許家福の助教として国術館に残り、許が外出するときは必ず人力車でお供をさせられたという。 車夫と口論になり、掌の一撃で倒してしまったこともあるが、「毎日いろんな所に連れていかれ、とても楽しかった」そうである。 ただし、やはり八極は秘密の武芸であり、あくまで表看板は太極拳であった。
波瀾万丈の青年期
そんな張世忠の生活に、やがて転機が訪れる。上海の顔役・徐鉄珊に気に入られ、引き抜かれたのだ。 この徐鉄珊とは、青幇の超大物であり、財閥で、世界紅卍会の中心人物であり、張宗援(伊達順之助)とともに山東自治連軍を組織した人物である。 張世忠は徐の秘書兼護衛であり、徐に面会に来る者はどんな大物であろうと、張がまず面接して徐に会わせるか否かを判断したという。
許蘭洲の縁か徐鉄珊の筋か、張は日本人馬賊として有名な伊達順之助や小日向白朗とも面識があり、小日向白朗とは戦後日本で再会したことがある。 「若い者に武術を教えてやってほしいと頼まれたが、断ったよ。」と、にこにこ笑って話されたのを覚えている。
ところで、徐鉄珊に連れられ張は、1941年に一度来日したことがある。 中国人3人と日本人1人とで、船で長崎に着き、神戸を経て熱海に滞在し、用事のたびに上京したそうである。 徐の目的は、自分が上海市長になるための日本当局への根回しであった。結局失敗するのだが、来日中、徐は好きなアヘンを自由に吸えずに苦労したという。
戦争中は徐とともに上海におり、日本軍を相手に大きな商売をもくろむなど、歴史の裏側を見続けてきた張であったが、戦後、騒然とする中国を離れようとし、全財産をサッカリンに替えて脱出を試みるが失敗、没収されてしまう。香港に1年ほど住み、1948年二度目の来日。その後つてをたどり、東京の蒲田に最初の中国料理店を開く。その間に中国では政変が起きたため帰国を断念。 以後、在日華僑として実業家の道を歩むこととなった。
日本に八極拳の種を
日本では永く武術のことを秘していた張世忠であったが、1980年、縁あって佐藤金兵衛師範率いる全日本中国拳法連盟本部道場に請われ、日本で初めて八極拳の短期講習会を開いた。(筆者はそこで張老師に出会った。張老師への縁を結んでいただいた故・佐藤金兵衛先生には、心より感謝申し上げます。)
これが契機となって、81年より都内の公園で八極拳を公開教授。 その後口コミで徐々に学生が増えはじめ、翌82年の雑誌「武術」の創刊とともに"八極拳ブーム"が起こり生徒が急増、まもなく「八極拳研究会」を発足させた。
武林の輪の拡がり
「武術」創刊号は、松田隆智先生による八極拳の特集であった。 張はこれを見て、松田先生に会いたいと希望した。依頼を受けて筆者が編集部に投書、松田先生もじつは楊名時先生から「張世忠という名の八極拳家」の存在を以前に聞いており、かねてから会いたいと思っていたとのことで、両者の会談が実現した。 こうして83年、「武術」3号に張が紹介されることとなった。
一方、80年に来日していた若き長春八極拳家・李英氏は、この「武術」3号の記事を見て張の八極拳が自分と同系統であることを知り、長春の師に許可を得たうえで張に会いに来た。 両者はたちまち意気投合、以後、互いに深い信頼関係が築かれる。
張は、高齢の自分に代わり李英氏に師範代を依頼、83年末より数年間にわたり李英師が八極拳研究会の指導を受け持った。 「武術」7号、8号には松田、張、李による三者会談が掲載され、八極拳ブームにますます拍車をかけた。
84年秋、李英師の協力を得て日本初の八極拳の技術書を福昌堂より刊行する。 この書籍「八極拳」は、断片的な情報しかなかった当時において、初めて体系的に八極拳の技術を網羅して紹介した画期的なものであり、その価値は17年の歳月を経た現在でもいささかも衰えてはいない。
また、85年夏には台湾武壇の総帥・劉雲樵先生が来日、張の店を訪れた。
このように、張世忠にとっては六十代後半から七十代前半にかけてが、かつて青春の一時期を費やした八極拳という武術の一度に開花した時期であった。
晩年・・・望郷の念やみがたく
三十代半ばよりずっと日本で暮らして来た張世忠だが、中日国交が回復し帰国が可能になった頃よりしばしば訪中するようになった。七十代半ばになると帰心やみがたく、ついに中国杭州に家を買って帰国した。故郷の天津郊外にはまだ身寄りも残っており、また国術館時代の同窓生とも再会を果たしている。
それ以降は日本と中国をたびたび往復する生活を送っており、日本に来た際には八極拳研究会にもときおり訪れていた。が、数年前杭州で自転車に当たって転倒、腰の骨を折る重症を負う。回復後日本で療養していたが、それ以来体力が急速に衰えていった。
99年4月29日、中国へ旅立つ。筆者たちは箱崎エアターミナルに見送りに。そのときの張老師の嬉しそうなお顔が、いまも目に浮かぶ。
私たちにとって、まさかこれが本当に永遠のお別れになろうとは思わなかった。